貧乏球団と揶揄された広島カープ。草創期には、移動するための交通費を工面できなくて、大阪まで歩いて行こうなどとの逸話が残っています。
樽募金で、市民からのカンパを頼むなどして、なんとか球団を維持してきたので、有望な選手を集めることはままならず、ひたすら選手育成に努めてきた歴史があります。
そういう中で、1975年のシーズンは、球界初の外国人監督ルーツを迎え、ヘルメットを赤に変えて闘う姿勢をハッキリさせましたが、闘志が空回りして開幕後間もなく監督が辞任。変わって指揮を執ったのが古葉竹識氏、当時38歳でありました。
この年、12球団の監督は以下のとおりです。
太平洋クラブライオンズ 江藤慎一 37歳
日本ハムファイターズ 中西太 41歳
ちょうど時代の転換期でした。多くは青年監督なんて呼ばれていて、みんな若い若い。最年長が54歳ですからね。ここから少しずつ、年齢が高くなっていきます。
青年監督の象徴が古葉監督。機動力を駆使して、赤ヘル旋風を巻き起こし、遂にはセ・リーグの覇者となりました。
当時は、三塁ベースコーチになったりで、まさに陣頭指揮といった感じ。
常に球のあるところから眼を切らない姿勢といい、スキを感じさせず、カッコよかったです。
考えながら低音でボソボソっと言うコメントが知的に思われ、多くのファンを魅了したものでした。
あの弱小チームを率いて、11シーズン優勝4回、Bクラスは2回だけ。カープを常勝軍団に引き上げました。見事な成績であります。
享年85歳。合掌。