都会のネズミと田舎のネズミ

読書ネタ、スポーツネタ、お笑いネタ、時事ネタを拾いながら、笑いの方向へと導きます。3打数1安打を目指しています。ハズレよりもアタリを読んでください。

悪法もまた法なり

その昔、ギリシャの哲学者ソクラテスは、今でいうひろゆきよろしく、道行く人たちと熱く議論をしては論破するを繰り返し、若者たちから広く支持されていました。やり込められて恥をかかされた者は、ソクラテスが若者たちを堕落させていると言いがかりをつけて告訴したといいます。その裁判で、ソクラテスは自らの罪を認めずに、陪審員からの印象が悪くなるような発言を繰り返したため、死刑という最悪の判決をされることになったのです。ソクラテスが幽閉されてから、支持者たちが国外に脱出させるための計画を立てたものの、ソクラテスはこれを拒否し、逃げられたにもかかわらず死刑になるということを選びました。このときに残したとされる言葉が「悪法もまた法なり」です。

 

この言葉には、後年いろいろな解釈がなされていますが、大学の法学部では「罪刑法定主義」の大原則と共に、学んでいったりしているのです。

う〜ん、私はちょっとだけラグビーをかじり、それにまつわるいろんな逸話に魅了された者なので、スポーツにおいて、審判が下した裁定に対しては、抗ってはいけないの立場を信奉しております。だから、その結果に対してガチャガチャ言わないことこそが、スポーツマンシップであるとの認識です。

パリ五輪では、柔道男子60キロ級の永山竜樹選手の「待て」を巡る判定、同じく男子90キロ級の村尾三四郎選手の決勝での一本が取り消し、さらには男子バスケットボール、フランス戦での試合終了間際でのファウル宣告、サッカー女子「なでしこジャパン」のナイジェリア戦でのPK取り消しなどが、大騒ぎとなりました。だけど、その逆の日本人に有利な、肩入れしたようなジャッジもあるわけで、そういう微妙さはイーブンであると思うのです。

あらゆるスポーツには、選手だけでなく、その間に入る審判員がいるもので、それを含めて競技が成立しているということ。

その前提を必要以上の正義感(のつもり)でもって、審判員の人格攻撃を行うというのは、重大なマナー違反であり、審判員たち自身の研鑽や努力に対する想像力やリスペクトに欠ける愚かな考えだと思います。

決して結果だけが全てではないし、青少年に対してはそれを教えるのが年長者の責務でもあるのです。