太宰治の本名は、津島修治といいます。
津軽訛りの彼が名乗ると「ツスマスンズ」みたいになるのが嫌で、いろいろこねくり回した結果だという説があります。
プライドとコンプレックスが同居する自尊心の塊でしたから、私はこれに一票です。
この頃は、ダサいなんて言葉はありませんでしたからね。
諸説ある「ダサい」の語源の有力説は、主に1970年代前半の関東地方の暴走族が使い始めた俗語だそうで、「田舎(いなか)」を音読みして「だしゃ」とし、それが転じて「だしゃい」→「ダサい」になったんだと。なるほど、ありますね、それ。ともかくも、太宰治は知らなかった言葉です。
博報堂が発行している『月刊!生活総研』四月号は「ダサい」の研究発表でした。
かつて「ナウい」が死語となり、それでも生き残った「ダサい」という言葉は、令和の今、どのような受け止め方をされているのでしょうか。
2026年の調査で浮かび上がったのは、自己認識の変化です。「自分はセンスが良い方だ」と回答した人は40.9%であるのに対し、「自分はダサい方だ」と認める人は59.1%で過半数を超えました。
2000年の調査では、64.7%がセンス良しと回答していたのと比べると、大きな変化が読み取れます。
だけど、もっと興味深いのは、自己評価が下がる一方で「他者」への評価が極めて寛容、かつ肯定的になっている点です。「日本人全体ではセンスが良い人が多い」と回答した人は51.5%に上り、2000年の28.1%から大きく上昇しているのが分かります。
それは、親世代に対しても同じ。かつて「ダサさ」の象徴とされがちだった親世代への評価も変わってきていて「自分の世代の方が親世代よりダサい」と回答する人が4割も存在しています。
なぜ、そこまで他者に寛容になれたのか?それは「ダサい」という言葉の意味が「外見の不完全さ」から「内面の傲慢さ」へと移行したからだと分析しています。
それが象徴的だったのは「選挙に行かないこと」について、75.3%もの生活者が「ダサい」の烙印を押しているのに見られます。かつて政治への無関心は「クール」や「中立」と捉えられていましたが、今は社会参画を放棄する姿勢について「無責任でダサいもの」へと書き換えられているようです。「自分の意志を持たないこと」そのものを「ダサい」とみなしているのかもしれません。
学生時代、ソフィスケイティッドという英単語の日本語訳がピンと来なかったけど、今は分かります。太宰治にも教えたいなぁ。