都会のネズミと田舎のネズミ

読書ネタ、スポーツネタ、お笑いネタ、時事ネタを拾いながら、笑いの方向へと導きます。3打数1安打を目指しています。ハズレよりもアタリを読んでください。

ボンクラーズ②

大学の将棋部は、部室があるものの、10人も入ればいっぱいで、部員が集まることができません。
そこで、渋谷にある将棋道場の二階を借りて、毎週土曜に練習(?)しておりました。
今はどうなのか知りませんが、練習と言っても、ただ何となく集まって、何となく対局するだけ。
遊んでるおじさんたちと、ほとんど変わらない緩さです。
パチンコと変わらないシチュエーション。
人格形成の大事なときにねぇ、楽しければ何だっていいというタイプが集まります。

道場の受付に中学生と思われる少年がおりました。
聞けば、奨励会という養成機関に属するプロのタマゴで、修行の一環として手伝いに来てるんだそうです。

  「ふーん、奨励会員ねぇ。プロになるんだ。頑張ってねー」

年端のいかない子供が将来に明確な目標を掲げているのに、ちょっぴり嫉妬した私は、小バカにした感じでイヤミたっぷりにほざきました。
ヒドい話ですが、棋士の立場が今ほど強くなかった時代ですから、そこまで覚悟を決めているさまが、羨ましかったのであります。
こちらは二十歳過ぎで、いまだに何がやりたいかも分かっていませんでしたから。

それから20年の月日が流れ、友人の結婚披露宴で、そのときの少年と再会します。
少年はたくましく成長し、讀賣新聞社創設の竜王戦を制して第一期竜王位に就いておりました。
その名は島朗(しま・あきら)。
後の名人となる羽生善治森内俊之佐藤康光と四人で『島研究会』という勉強会を立ち上げたことで、俄然注目を集めたのです。
自身のタイトル戦には羽織・袴を着用せず、アルマーニのスーツで登場し、世間をアッと驚かせました。将棋の研究に、いち早くパソコンを導入したのも彼の功績。
従来の常識に囚われない自由な発想は、若い将棋ファンの憧れの的でありました。
私のことなど、覚えていないだろうと挨拶すると、

  「若林さんでしょ」

だと。
絶句です。
何故なら、ほとんど会話したことありませんでしたから。
だけど、彼は無名な私の名前を覚えていました。
あのときのひと言が凄く悔しくて、それをバネに今日があるとも。
棋界のニューリーダーは、記憶力のすごさもケタ外れなら、その繊細さも半端なものじゃありませんでした。

(つづく)