都会のネズミと田舎のネズミ

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長州藩の撫育制度

萩の長州藩が、維新に向けて暗躍した人材を続々と輩出したことや潤沢な資金をため込んでいたのは、1763年毛利中興の祖とされる7代藩主重就のときに、「撫育局」という組織を作り、身分に関わらず実力主義によって、下級武士からも人材を登用したことによります。

当時、長州藩の生産物としては、「防長の四白」と言われる米・塩・紙・蝋(ろう)が名高く、大阪の市場で人気を集めていました。
米は、品種改良に熱心で、新田開発もどんどん進められました。財政の基礎が土地からの収入に置かれていたので、開墾の増収に積極的に取り組んだのです。
塩は防府市三田尻に「ソルトアリーナ」と呼ばれる体育館があることで分かるように、、兵庫県の赤穂と並ぶ、当時の二大生産地でありました。
紙は岩国の山代や徳地のものが有名で、重要な財源となっていたそうです。
蝋は撫育局が最も力を入れた品物で、萩の一丸蝋として、大阪の地で歓迎されました。
そのために、原料となるハゼの木の植林を進めたと言います。
この中でも紙や蝋の加工品は、当時としては斬新であり、藩の目のつけどころが確かであったことを窺わせます。わざわざ作ったのですからねぇ。

これだけの売るものがあれば、物流システムの確立が急がされ、いち早く下関や防府、室積に港が出来上がりました。そこからは、とんとん拍子で発展します。宿場が生まれ、倉庫ができる・・・
幕末の維新を語るとき、その人間力ばかり強調されておりますが、実は藩の巧妙な経済政策(産業開発)で裏打ちされていたのであります。
  
では、何故そんなことができたのでしょう?

一つは萩が辺境の地であって、中央から離れていたことで、自由な発想を生みやすい風土だったこと。
もう一つは、藩主が藩士に任せる姿勢を持ち続け、必要以上な干渉をしなかったことが挙げられています。
  
長州藩の撫育制度は、新規事業開発を目的とし、藩内では既存の組織から独立した存在で、藩主直属となり、実力と意欲によって登用されておりました。社内ベンチャーのさきがけであります。

こうして蓄えられたお金が、明治維新のときに100万両にまで達していたといいます。
その資金力が、原動力になっていたことを、つい最近知りました。
長岡の『米百俵』にも似た、いい話であります。