明治22年の人口統計によれば、都道府県別の人口順位で東京府(当時)を抑え、何と新潟県が一位だったといいます。そんな大胆なことがあったんですねぇ。考えてみれば、今の首都圏人口を支えているのは、第二次及び第三次産業によるもの。発展途上だったこのころ、仕事といえば、まず一次産業、とくに農業。そうなると、面積が重要な要素であり、むべなるかなであります。新潟県、港が開かれたのも早かったから、人が集まったのでしょう。
都会で暮らしていると、一次産業の存在そのものを忘れてしまいがちですが、ここ豊田町は、農家だらけです。兼業を入れると、全体の五割を超えているような気もします。だから、みんな米や野菜を見る目が厳しい!?
もうひとつ、侮れないのは林業の存在です。平気で山を二つ持っているような人もいたりして、ちょっと見ただけでは、どれほどの資産家かが分からない構造になっています。
何故、分かりにくいかといえば、お金そのものの動きが少ないからでありましょう。
米をあげたり野菜果物をもらったり。地元では猟友会なるものが活躍するので、ここにイノシシやシカ肉が参入します。もちろん、サカナもあり。つまり、
物々交換の文化ってこと。
田舎では、家さえ持っていれば、お金がなくても充分に暮らしていけるのであります。
そこへ都会の物差しを当てはめようとしても、なかなか理解できるもんじゃありません。
深いんだなぁ。