プロ野球監督の通算勝利数ランキングを調べてみました。
年数 勝利数 敗戦数 引分 勝率 リーグ優勝 日本一
1位 鶴岡一人 26 1,773 1,140 81 .609 11 2
2位 三原脩 23 1,687 1,453 108 .537 6 4
3位 藤本定義 29 1,657 1,450 93 .537 9 0
4位 水原茂 21 1,586 1,123 73 .585 9 5
5位 野村克也 24 1,565 1,563 76 .500 5 3
6位 西本幸雄 20 1,384 1,163 118 .543 8 0
7位 上田利治 20 1,322 1,136 116 .538 5 3
8位 王貞治 18 1,315 1,118 74 .540 4 2
9位 別当薫 20 1,237 1,156 104 .517 0 0
10位 原辰徳. 16 1,220 955 89 .560 9 3
11位 星野仙一 17 1,181 1,043 53 .531 4 1
12位 川上哲治 14 1,066 739 61 .591 11 11
13位 長嶋茂雄 15 1,034 889 59 .538 5 2
20位 栗山英樹 10 684 672 54 .504 2 1
トップの鶴岡一人は、戦後間もなく南海ホークスを常勝軍団として引っ張りました。監督というより親分と呼ばれることが多く、選手からも慕われていたようです。「グラウンドにはゼニが落ちている」の名ゼリフで、猛練習を課していました。
2位の三原脩は、選手の勢いを見逃さない慧眼の持ち主でした。なかでも昭和35年に前年セ・リーグ最下位の大洋ホエールズを率いて優勝した采配は見事なもので、魔術師と称賛されています。
5位の野村克也は、かろうじて勝率5割を保ちました。敗戦数がナンバーワンとは皮肉です。勝つ監督というよりも育てる能力が高かったように思います。
負けたという印象がほとんどない川上哲治のランキングは、意外にも12位でした。監督を長く続けていく難しさが分かります。
ちなみに日本一の回数は、川上哲治がダントツですが、二番目は6回の森祗晶。続く5回が水原茂と工藤公康でした。
ところで、侍ジャパンを率いる栗山英樹は、現役時代をヤクルトで過ごしたので、てっきり野村チルドレンだと思っていたら、強い影響を受けたのが三原脩だとNHK総合『マジックの継承者たち』で紹介されていました。三原の娘婿、中西太から「勝利者の条件」と題された三原ノートと呼ばれる覚書を渡されていたのです。
そこには、「勝負は実力5運3勢い2」「勝負には実力とは別に心理戦と運がつきまとう」「野球の全てを一定の型に嵌めることはできない」「有利な心理戦を展開するのが監督の役目、そこにあるのは洞察力」「十人十色、長所を見つけ出せ」「強い言葉で奮い立つ者もいるし、優しい言葉で勇気を持つ者もいる。監督コーチは、それを見抜かねばならない」「困難なときほど人の真価が分かる。ハッスルせよ」など、マネジメントの要諦が散りばめられておりました。
驚いたのは、三原脩が近鉄の監督時代に首位打者にもなった永淵洋三という選手をデビュー時には投手として登用していたことです。ヤクルト監督時には、外山義明も一番打者・投手で先発させていました。純粋な二刀流の走りですね。大谷翔平を獲得したとき、その起用法に迷いがなかったのは、そんな影響もあったのかもしれません。
史上最強の侍ジャパンとなったチーム編成も、人たらしの栗山英樹が監督だからこそ集まったのではないでしょうか?
日本ハムは、決して戦力に恵まれた球団ではありませんでしたから、684勝672敗の成績には、弱っているときの戦い方が詰まっています。マジックも含めて。
さぁ、いよいよ闘いが始まります。