小学生のころ、プロ野球の開始時間は夜の7時でした。
巨人軍V9の始まり、つまり昭和40年に『8時半の男』として一世を風靡した宮田征典投手は、7〜8回に登板していましたから、昔は試合時間が短かったんですね。だからの7時始まり。サラリーマンが仕事を終えてからでも、初回から見ることができました。
当時、ラジオ関東(今のラジオ日本)で6:00くらいに始まった『私は名監督』という番組を欠かさず聴いておりました。
これは、その日に対戦する両チームの先発投手や勝利チーム、得点にホームラン打者を予想するクイズで、予告先発のないころの話です。
今の人にはピンと来ないでしょうが、情報の少ない時代のこと、こんなので充分に楽しんでいました。勝ち抜きの形式だったと記憶しています。
こんなのを聴きながら、少年ワカバヤシは、将来、プロ野球の監督になりたいとかなり本気で考えていました。
運動オンチの私に選手は無理だけど、監督だったらなれるんじゃないかと。まぁ、子供ですから。
で、この夢は、高校で将棋部に入ったときに、頭の片隅からも消え去ったのですが、社会人になって、草野球を始めると、またムクムクと起き上がってきます。
草野球であれば、監督になれるんじゃないか?
これは、簡単に叶いました。会社の草野球なんて、遊び半分ですから、しっかり面倒を見なきゃならない監督職は、マネージャーみたいなもの。誰もやりたがりません。
だから、あっさり実現しました。
いざ、その役に就いてみると、大好きな野球なのに、自分が試合になかなか出られません。
ベンチには10人以上がいますからね。自分が出場するわけにはなかなか。会社だってこともあります。加えて、さほど上手くないってのも。
かくして、ベンチワークに専念するのですが、意外にやることがないのが草野球です。
戦術なんかあってないようなもの。バントするような次元ではないし、サインを送っても見ちゃいない。
我がチームの唯一のサインは、「走れ!」だけ。
打者に対して「思い切っていこうぜ!」の掛け声が、それでした。「思い切っていこう!」は違う。「ぜ」がポイントです。これでも間違う選手がいましたから、実力の程は推して知るべしであります。
だから、監督の残された仕事の大半は、打順決めです。
メンバーのポジションは、大体決まってますから、そこに斬新な工夫はできません。
だけど、打順は決まっているわけじゃない。これをどうするかは、腕の見せどころでありました。
(つづく)