小学六年生だった私は、その日の授業に合わせて教科書等を準備するのが苦手で、しょっちゅう忘れ物をしていました。
今、思えば、発達障害的な一面があったのでしょう。ちょっと前の記憶が飛んでいく性質。大人になっても、家を出てから鍵を締めたかとか、アイロンのコードを抜いたかとかで、確認のため戻るなんてことを頻繁に繰り返していました。
担任の先生は、わざと反抗していると考えていたらしく、毎日のように忘れ物をする性根がない私を苦々しく見ていたようです。
頭にきたんでしょうね。ある日、習字道具を持って来なかった私の額に、習字の赤い墨で「忘れ物 若林」と書いたのです。
今だったら体罰で問題になるんでしょうが、当時は先生が支配者でしたから、そんなの関係ない。
で、私はといえば、堂々とそれを受け入れて、放課後もそれを消すことなく、自慢気に見せびらかして下校したのです。
ここで、怯んでしまったら、教師が図に乗ると思ったりしてました。イヤな子供。オリンピックの台本に携わらなくて良かった。
帰宅して、母親にめちゃくちゃ怒られたのは当然です。バカだねぇ。
その昔、沖縄では標準語を定着させるために、訛りが抜けない生徒に対し「方言札」というかまぼこ板みたいなものを首からぶら下げるように指導し、それは自分以外の生徒を告発するまで続けさせるというハンカチ落としみたいなシステムだったといいます。これが学校での話。そこまでして、共通語を浸透させようとした政府の言語政策は、第二次大戦後もしばらく続いたんだそうです。
これじゃ、県民の被害者意識が酷くなるのは当然ですね。国家的なイジメがそこらじゅうにありました。
今ではあり得ない話なんだけど、昔はそんなもの。戦争という発想そのものが上から目線、差別なんだなぁ。